甲冑の歴史 ~鎧について~ | 忠保の甲冑

鎧について

大鎧の詳細 ~平安時代~

大鎧は平安時代に入って武士が興る(おこる)と共に、武将が着用した晴れの第一武装として、実用と意匠の両面において、日本独特の発展を遂げました。騎馬による射戦が中心であったため、馬上での活動を自由にし、鞍の上で安定をはかるため、どっしりとした草摺(くさずり)をつけ、兜は眉庇(まびさし)が大きく垂れて顔を覆うなど、弓矢に対するさまざまな工夫がはらわれています。その後、戦いの形態が変わると、重い大鎧から、軽快な胴丸を着用するようになり、さらに改良が重ねられました。

篭手(こて)
初期の頃は弓を持つ左手のみ着用していましたが、鎌倉後期頃から長刀等が主流になった為、両腕に着用する篭手に進化しました。

大袖(おおそで)
大鎧に付属する袖はすべて大袖です。袖は通常、鎧につけたままとなります。
騎射戦に備え、馬上で楯を手に持つかわりに肩へ結びつけたのも。
矢を通さぬ堅固なものです。

鳩尾板(きゅうびのいた)
大鎧に主に備えられたもので、左の胸を守る鉄板。
その形が鳩の尾に似たところから、この名が生まれました。

栴檀板(せんだんのいた)
鳩尾板と対するもので、右の胸に垂れ屈伸が自在で、右手の動きがスムーズに出来るように工夫されています。

弦走革(つるばしりがわ)
大鎧の前胸に張った革のことで、矢を射るとき弓の矢が小札にもつれるのを防ぐためと装備を兼ねたものです。

草摺(くさずり)
馬上で腰部を保護する楯とする為、4割にすて前後左右に垂らして用いられました。

佩楯(はいたて)
馬上において腿を護り、又、騎射の際に身体の安定を保つ役割を持つ。
ことに大鎧では大きく、どっしりとした佩楯を用いました。
後世になると徒歩戦が主流となり、地上での機動力を確保するよう、佩楯は小型化していきます。

臑当(すねあて)
甲冑(かっちゅう)の小具足の一種で、膝(ひざ)から踝(くるぶし)までを保護するもの。
筒(つつ)臑当と篠(しの)臑当および鎖(くさり)臑当が主な臑当とされています。

腹巻・胴丸の詳細

騎馬用の大形の大鎧に対して、小型で足さばきを考えて草摺を細分した、徒歩用の武具です。
胸から腹部にかけて正面だけを覆った様式と、これをさらに背後に延ばし背面中央で引き合わせた様式があり、兜は必要に応じて筋兜が用いられました。
14世紀になると、騎兵に不都合な山岳戦や打物(刀やなぎなた)の合戦が盛んになると、武将たちも重い大鎧よりは軽快な胴丸を着用するようになり、さらに改良が重ねられました。

当世具足の詳細 ~安土桃山時代~

天文12年(1543)、ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えて以来、戦闘様式が一変。防御に完全を期すと同時に、軽くてしかも俊敏な活動性が求められ、当世具足と呼ばれる新形式の甲冑が生み出されました。鎧は頑丈なものが考案され、兜は弾をよける面具などもつくられました。
関ヶ原の役以降は、甲冑も時々の観兵式用として用いられるのみとなりましたが、その時代の人々が、機能性と同時に美しさをも追求して生まれた日本甲冑の見事さ、その高い気品は、外国の甲冑には見ることができません。

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